■ 偶然の確率と人生の奇遇
2006年06月26日(月)
|
いやはや驚くべき不思議な体験をした。還暦を越えること数年の私だがこれほどの“偶然”は長い人生のなかでも初めてだ。 先日のドジャースタジアムでのハプニング。同伴のワイフとバックネット裏での観戦が終わっていつもならそのまま真後ろの出口に歩を進めるのだがフィールド内に観客を入れてロックバンドが演奏を始めたのでそれを見るため外野席の方に歩き出した。しばらくして歩を止め演奏を聴いていた。その間20分くらいだろうか、ワイフがそろそろ帰らない?と出口に向かった丁度その時、一人の若い東洋人の女性が階段を上ってきた。するとワイフがその女性に向かって何やら声をかけている。そして「Aちゃんよ」と私に叫ぶのだがそれでもどこのAちゃんか判らずとりあえず愛想笑いをした。彼女は私を見て笑っているではないか。その笑顔を見て私はようやく思い出した。エッ、Aちゃん?と言いながら余りの懐かしさに彼女に近寄って抱擁をした。オーストラリアから必ずメールしてね、と頼み込むワイフもAちゃんも涙している。再会を心底喜んだ3人だった。
これは単なる出逢いではない。私達にとっては“とんでもない奇遇”なのだ。とは言え私は私事を披露するつもりはない。ここでみなさんと共に“偶然の確率と人生の奇遇”について考えてみたいと思ったからこそあえて長々と書いているのであります。しばしのお付き合いをお願いする次第だ。
実はAちゃんの一家とは長い付き合いの親しい間柄でとくに私達一家(10歳の長男と5歳の長女と共に)が今から27年前に米国に移住したとき、既に移住していた彼らのロサンゼルスの家に泊めてもらいいろいろと世話になった。これだけなら良くある話かも知れない。
プライベートな事なので言いにくいのだが今26、7歳になったAちゃんの両親は彼女の幼少の頃に離婚した。いわゆる母子家庭で成長し米国の大学を卒業、東京の外資系企業に勤めた。私達はAちゃんの母親であるMちゃん(お互いにファーストネームで呼び合う仲だった)にはロスに行けば必ず会った。それが楽しみだった。 何を隠そう40年前、そもそも私達の結婚式の司式を牧師のMちゃんの父親に頼んだ、という縁なのだ。当時Mちゃんはチャーミングな高校生だった。そのMちゃんが数年まえ、乳がんの疑いで検査を受けた、という知らせに私達は少なからず動揺を覚えた。早期発見なら助かる、と自分達に言い聞かせてなんとか不安を押さえようとした。彼女が日本を訪れた時に抗がん剤の影響で髪の毛が抜け落ちたMちゃんのためにワイフはウィッグを買ってあげた。周りから良く似合うと言われ喜ぶMちゃんと軽井沢に一泊旅行に出掛けたワイフはもしかするとこれが最後になるかも、と思ったと言う。Mちゃんもそのことを意識していたのか“想い出旅行”を楽しんだようだった。 ロスに戻った後、Mちゃんが体調を悪くして入院。治療の甲斐なく最後の瞬間を迎えるために本人の希望で自宅療養に入ったと言う知らせを、見舞いに行った私の娘から聞いて心を乱した。Aちゃんは日本から急遽ロスに向かった。わずか1週間の看病後、50代半ばの若さでMちゃんは静かに息を引き取った。死に目に会えなかった事が心残りとなった。 東京で告別式に参列して以来、Aちゃんに会うチャンスがなかった。風の頼りにオーストラリアに居るらしいことは知っていた。ワイフは度々、Aちゃんに電子メールを出したが返事はもらえずじまいだった。ちゃんと生活しているだろうか、傷心は癒えただろうか、など心配はつのるばかりだった。 ワイフは今回の渡米に際してMちゃんの遺影に向かって「Aちゃんの事が気にかかるけど大丈夫かしら」と問いかけてきたと言う。 そのAちゃんに遇った。 ここで“偶然”の確率について考えてみたいと思う。 ★オーストラリアに住むAちゃんはロス滞在2週間のバケーションで1週間目 だった 。 ★ 今まで野球など観た事もなかったのにボーイフレンドとドジャースの試合を観に来た。 ★ ドジャースタジアムの入場者数は約4万6000人。探したって見つけられるものではない。 ★ 私達二人は7月末の誕生日が同じ。ほぼ1ヶ月早いが娘からイチローの出る試合のチケットをプレゼントされた。 ★ 試合終了後に場所を移動した。 ★ そこで時間を費やした。 ★ Aちゃんがボーイフレンドを探しに席を立って上段方向に歩きだした。 ★ それに合わせるかのようにワイフが移動し始めた。 ★ そこでバッタリ出逢うことになる!
たとえは適切ではないがまるでミサイル弾が敵機に命中させる様な正確さだ。私は神や仏の存在を信じたり信じなかったりするいたって曖昧な人間である事を白状する。親父がたまたま購入した墓地が上野の杜にある寛永寺。ここは天台宗だが私達一家は先祖を大事にするとは言え、敬虔な仏教徒とは言えないかも。 今回の一件を体験して私は明らかに故人が“奇遇”を演出し導いてくれたのだと確信に近い思いを抱いている。神か仏か知らないが何かの“念力”がそうさせたのだろう。前述のようにあまりにも偶然が重なりすぎている。バッタリ遇うなんていうナマ優しい話ではないのだから。まさに“念ずれば通じる”の典型なのだ。
さてさて、長文をよくぞ付き合ってくださいました。心より感謝します。
|
|
|