■ 横浜事件
2005年07月31日(日)
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| 「改造」という名の人気総合雑誌の1942年8~9月号に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が「政府のアジア政策を批判するもの」、「共産主義を宣伝した」として治安維持法違反容疑で編集者ら60人以上が神奈川県警特高課に逮捕され、4人が拷問の末、獄死、30人余りが起訴された。この中には"戦争傍観の雑誌"と烙印を押された「中央公論」の編集者も含む。これが「横浜事件」である。当時の被疑者の一人、「改造」の編集者、小野康人は手記(美作太郎・藤田親昌・渡辺潔著『言論の敗北』)に次のように残している。「私は決して共産主義を信奉していたものではなく、むしろ日本の軍閥・官僚の恣意によって強行されている大東亜戦争を、本当の民族解放の聖戦たらしめんとする純情から、編集と云う職域によって粉骨していた愛国主義者であったのであります。」 「米国の軍閥・ネオコンの恣意によって強行されているイラク戦争を...」と言葉を置き換えてみると見事に当てはまるところが皮肉ではないか。今、ブッシュのアメリカは"赤狩り"ならぬ"反イラク戦争派狩り"が真っ盛り。"米国版横浜事件"を恐れてジャーナリストたちがカナダに逃げているという。くわばら、くわばら。
(東京新聞「本音のコラム」05.7.31)
戦時中最大の言論弾圧とされる「横浜事件」の再審について、横浜地裁は7月29日、審理を公開の法廷で行うことを弁護団と横浜地検に伝えた。初公判は10月17日に内定。有罪判決から60年を経て、歴史の闇に埋もれてきた事件の背景と弾圧の実態が、どこまで解明されるか注目される。(東京新聞05.7.30) ******************************************************************** 横浜事件とは 松浦 総三(平凡社大百科事典より)
太平洋戦争下の特高警察による,研究者や編集者に対する言論・思想弾圧事件。
1942年,総合雑誌《改造》8,9月号に細川嘉六論文〈世界史の動向と日本〉が掲載されたが,発行1ヵ月後,大本営報道部長谷萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難し,これをきっかけとして神奈川県特高警察は,9月14日に細川嘉六を出版法違反で検挙し,知識人に影響力をもつ改造社弾圧の口実をデッチ上げようとした。
しかし,細川論文は厳重な情報局の事前検閲を通過していたぐらいだから,共産主義宣伝の証拠に決め手を欠いていた。そこで特高は細川嘉六の知友をかたっぱしから検挙し始め,このときの家宅捜査で押収した証拠品の中から,細川嘉六の郷里の富山県泊町に《改造》《中央公論》編集者や研究者を招待したさい開いた宴会の1枚の写真を発見した。
特高はこの会合を共産党再建の会議と決めつけ,改造社,中央公論社,日本評論社,岩波書店,朝日新聞社などの編集者を検挙し,拷問により自白を強要した(泊共産党再建事件)。
このため44年7月,大正デモクラシー以来リベラルな伝統をもつ《改造》《中央公論》両誌は廃刊させられた。一方,特高は弾圧の輪を広げ,細川嘉六の周辺にいた,アメリカ共産党と関係があったとされた労働問題研究家川田寿夫妻,世界経済調査会,満鉄調査部の調査員や研究者を検挙し,治安維持法で起訴した。
拷問によって中央公論編集者2名が死亡,さらに出獄後2名が死亡した。その他の被告は,敗戦後の9月から10月にかけて一律に懲役2年,執行猶予3年という形で釈放され,《改造》《中央公論》も復刊された。拷問した3人の特高警察官は被告たちに人権じゅうりんの罪で告訴され有罪となったが,投獄されなかった。 ******************************************************************* なお、事件は、東条英機のふところ刀(懐刀=機密に参与する腹心の部下)といわれていた内務次官、唐沢俊樹のシナリオで、反東条勢力の近衛文麿とその側近グループを、昭和研究会や昭和塾(昭和研究会の外部組織背の青年教育機関)を口実に潰すのが狙いだったという説(唐沢黒幕説)もある。
唐沢俊樹(からさわとしき;1891〜1967)=長野県生まれ、東大卒後内務省に入り欧米留学、和歌山知事等を歴任、1932(昭和7)年の5・15(ごういちごう)事件後は進んで治安維持担当の内務省警保局長に就任、1936(昭和11)年の2・26(ににろく)事件の責任をとって辞任したが、1939(昭和14)年第36代阿部信行内閣の法制局長官として復権し、1940(昭和15)年には貴族院勅選議員となる。
この間、日本共産党中央委員会の壊滅作戦や大本教や創価学会に対する徹底的な弾圧、憲法学者、美濃部達者の「天皇機関説」を不敬罪として告訴(天皇機関説事件)するなど一連の思想弾圧政策を指揮した。
戦後、1951(昭和26)年公職追放から解除されるや郷里の長野4区から総選挙に立候補し、度の落選を経て1955(昭和30)年に当選(以後4回当選)。1957(昭和32)年第56代岸信介内閣(第1次岸内閣 改造内閣)の法務大臣に就任する。1965(昭和40)年11月3日、勲一等瑞宝章を授与される。 ★文章は引用のまま。
さらに詳しくは「横浜事件」でネット検索をお薦めする。
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