■ 我が家の防空壕
2003年05月18日(日)
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両親とともに住んでいた家を借家に改造するため床下を覗いたら何と約60年前に親父が掘った防空壕が現れた。当時5歳の私はB29の空襲の度に防空壕への避難を余儀なくされた。バケツに用を足すのだが過度の緊張のため出るものも出ない。それより何より土の臭いが墓の中のようで耐えられなかった。米軍の東京大空襲が最も激しかった昭和20年3月10日だけで約8万人が亡くなった。人口密集地域の台東区、江東区、墨田区などにおびただしい数の焼夷弾が落とされ、多くの家が焼かれ火の粉が舞った。落下の際に出るヒュルヒュルヒュルという打ち上げ花火に似た音。B29を撃ち落とすために発射されるウーーワンという低い大砲の音。疎開先の栃木県小山での米軍のグラマン戦闘機が国道の歩行者を目がけて機銃掃射をする光景とバリバリバリという落雷の現場のような音。これらの暗く陰鬱なシーンや音は未だに目に残り耳にこびりついている。昭和17年生まれ、当時3歳の小泉首相には臨場感あふれる戦争の恐ろしさの記憶はないはず。そんな首相がイラク侵攻騒ぎのドサクサに紛れて、誰が見ても「アメリカ追随」の有事法制の認定に急アクセルを踏んだ。何だかアブナイぞ。防空壕はいつでも使えるように保存することにした 。 (東京新聞「本音のコラム #12」 2003/5/18)
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